自分が小学校、中学校の頃は、自由に本を買う、という行為に恵まれなくて、絵を描くという行為については、高校生になるのを待たなくてはならなかった。
それ以前のことは、折を見て触れているが、絵を描いて見せに行ったら「必ずといっていいほど叱られた」ことが往々にしてあったことは忘れ得ない。
弟が保育園時代に絵で何かの賞を取ったのとはまるで正反対のようであった。尤も、その弟はもう絵を描いてはいないのだが。
絵を描く上で最初に何があったか。そうだ、ドラクエ4コマがあった。これなら私にもできるんじゃないかと思った。しかし実際にやってみても、良いネタというのは往々にしてもう使われていたり、それ以前に「絵をちゃんと描く」に至ってなかったと痛感した。
先ずは、どうやって絵を描くべきなのかを学ぶ必要があった。幸いにも、高校の近くに古本屋があった(今はないようだ)。そこに足しげく通い、やがて1冊の本に巡り合う。
それは「マンガの描き方」というどストレートでひねりもない本であったが、ここで漸く人体の描き方、というのを知った。そこでアタリをどのように入れて描けばいいのかという根本のところから学習することができた。
ここの段階で、いろいろと試してみた(やはり手を動かしてみる、というのは今でも重要であることを知らされることになる)が、最初からそううまく描けるわけではなかった。
やがて時間はかかったものの、基本的にどう描けば良いか、そういった最低限なことを知ることができた。1998年か、もうちょっと時間が掛かったか。
少し描けるようになると、すごく興奮したのを覚えている。エキサイティングな体験だったように記憶している。また叱られるだろうから、暫くは「絵を描き始めた」ことを内密にしておくことにした。まぁ、机の上に落書きめいた紙が散らばっていたから、母親は何か悟っていたかもしれない。
この頃に、今でもバックボーンを形成しているものと出会っている。モンスターメーカーだった。コミック版にハマり、小説版にもハマってしまい(「ドラゴンライダー」は一気通貫で読んでしまったが、表紙のポップな絵とは真逆のクラシックで濃厚なファンタジー体験だった)、私の創作の礎に、今もなっている。
だがしかし、そこで「完全に理解した曲線」は一気に谷底にまで落ちることになる(実はその谷の中に今もいるのだが)。色々理由があって、結局のところ関わり合いのあったところから袂を分かつという重要な意思決定が必要となった。
回復はしてきてはいるが、それでも「道半ば」と言わざるを得ない、1999年から2002年の間でいったい何が起こったというのだろう。まぁ、敢えて言及は避けるが、「身から出た錆」ではあった。
前後して、名前は忘れてしまったが(たしか「ナントカ大魔王」か「カントカ大王」だったか。メールでやり取りしていたこともあったはずだが、システムトラブルで抽出が困難になってしまった)、CGでどうやって塗ればいいのかを教えてもらうことになって、なんと今でもその塗り方で色を塗っている。それほどまでに革命的な出来事だったと断言できる。でなければ、今の成果を生み出せるのにあと10年は掛かっていただろう。或いは別の何かしらの塗り方をしていたかもしれない。
やがて、色々な作品に触れるにしたがって、洗練化されるものかと思いきや、どこかで成長が止まったような、そんな気になったり、数年間のブランクが開いたりした。
今でもそうだが、創作の「火」が消えかかっていたり、そのものが消えてしまっていたこともある。その度に私はクランク棒で強引にエンジンを掛けようとしたり、あらゆる手段を講じてはきたのだが、そういう時に限って満足のいく質の作品は生まれ得なかった。特に2002年は人生の中でも一番過酷で、死線の一歩手前にいた(それは今もではあるが)。だが同時に、2度とあり得ないスリリングな体験もした。同人誌ではあるが、そこから指名があり、カットを描いてくれ、というオーダーだった(結局それも、満足のいくものにならなかったので、描かなかった方がよかった、のかもしれない)。だがしかし、他の何物でもなく「この私」が指名されたんだぞ。こんなこと、もう2度とないだろう。
ただ、これには言い訳もある。他の何かに夢中だったり、仕事に忙殺されていたりと。しかしそれでも「続けている人は続けている」のだと。そんな私に「絵で飯を食っていけるか?」と自問したが「オマエにはその資格はない」と自答した。それが今年の2月かそこらだったか。絵で食っていこうなんて甘ったれた思考を燃やすことにした。それがいいことなのか、悪いことなのか、私は残念ながら未来を予知できる人間ではないので、如何とも判断しがたい。
ただ、まさかこの歳になるまで、何かしらの形で絵を描いているなんて、高校時代の自分にも夢想だにしなかっただろう。しかし技量的に、幼稚園から絵を描いて、上手い巧いと褒められ育ってきたような神絵師の下にすら辿り着くことは、残念ながら其処は「到達されざる大地」であった。
これは自己憐憫ではない。自己責任である。捧げるべき時間と、血と肉が、全く足りなかったのだ。私は「質」を重視した。だがしかし「量」も必要であったし、絵を1枚描いたら暫く休憩を要した。ここが致命的だった。世の絵師たちは、休憩など惜しまず絵をもりもりと描いていたはずだ。体力と、それの覚悟。それらが私の中では完全に欠如していたのだった。
だがこの人生は、かくありきなものじゃないか、と思うようになった。まさに歴史のひと文字にもならなかったが、それで充分じゃないか、と。歴史に残る偉業を成したわけでもなく、時代に残るものを描いてきた訳でもない。
ただ私は、言語としての絵を描いてきたと思っている。その時々の私の感情のままに、特に2000年代は描いてて本当に楽しかったし、充実した時代ではあった(まぁ今も昔もだけど、貧乏なのたが)。
楽しみとしての絵描きというものをふと思い出したら、今度こそはちゃんと描こう。「もうそんなに必死にならなくていいよ」と、自分に言い聞かせながら。